2019年10月31日木曜日
2019年10月22日火曜日
母が亡くなりました
病棟の看護士さんからの連絡で私が駆け付けた時、
まだ手が暖かくて、ただ眠っているように見えました。
穏やかな表情でしたので、苦しまず静かに息を引き取ったのだと思います。
足がむくんできて、ご飯を食べなくなって1か月、
病院に入院して3週間、緩和ケア病棟に移って10日目の朝でした。
病名は末期のすい臓がんと肝臓の転移がんでした。
余命1ヶ月くらいですが、いつ亡くなってもおかしくない状態とも言われました。
体のむくみと自分で寝返りできないのが辛いようで、
むくんだ手足をさすったり、体の向きを変えてもらったりの毎日でしたが、
がんの苦痛を訴えることはありませんでした。
それでも、母にとってつらい病院生活をさせてしまったという、
後悔の念はいまだに消えません。
むしろだんだん強くなって、思い返すと息が苦しくなります。
振り返れば、ご飯を食べず寝てばかりいて、食べてないのでふらふらして、
トイレの前で転倒しました。朝、声をかけてもご飯はいらないと起きてきません。
それで、介護支援事業所に相談して救急車に来てもらいましたが、
そもそも、その対応は正しかったのか、何度も何度も自分に問いかけています。
どうにかして私の車に乗せて、病院の消化器内科を受診していれば、
あんなにつらそうな1日2~3回、何時間もの点滴をしなくてすんだのではないか。
体がパンパンにむくむようなこともなかったのではないか。
点滴なしなら、数日早く亡くなったかもしれないけれど、
むくんだ体で寝返えりもできないという辛い思いもせずにすんだのではないか・・・
母が辛そうなので「早く緩和ケア病棟に移してください!」と看護師さんに訴えたら、
「あなたは延命しないでいいという確認を本人にとっていますか!」とするどく返されて、
思わず口をつぐんでしまいました。それでも見るに見かねて、
(転院も含めて)「ソーシャルワーカーに相談する!」と言ったら
翌日から急にスタッフの対応が変り、緩和ケア病棟師長が会うことになったと告げられ、
その翌日、緩和ケア病棟師長から病棟移動の話があり、
3日目の朝、緩和ケア病棟に移ることができたのでした。
緩和ケア病棟の主治医の判断は、救急病棟とまるで異なり、
点滴はせず、体のむくみを減らすというものでした。
むくみがとれれば本人も楽になるはずです、とも言われました。
もっと早く、もっと強く病院に訴えて、ここに来るべきだった。
私の後悔の念は消えることがありません。
5年間の介護はたしかに大変でしたが、
母がいないと、心のなかにぽっかり穴があいてしまって、
何をしてもその穴が埋まりません。
ああすればよかった、こうすればよかったと悔やむことがたくさんあって、
母の遺影に「ごめんね、ごめんね」と謝る毎日です。
ただ、能力の限界まで頑張ったと思えることだけが私の救いになっています。
2019年9月9日月曜日
2019年8月26日月曜日
東京家族(山田洋次監督)
子供たちを訪ねて東京へ出てきて、旧友の沼田三平と居酒屋で飲みながら話すシーンが
心に残りました。
「わしらの故郷は寂しゅうなるばかりじゃ」「どっかで間違ごうてしもうたんじゃ、この国は」
「このままじゃいけん、このままじゃ」そう言って平山は医者に止められている酒に酔い潰れて
いきます。
そうなんだよなぁ・・・私たちの故郷は寂しくなるばかりだ、このままでは・・・(涙)
うて お
2019年8月21日水曜日
別居という選択
仲たがいしたとか、そういうことではありません。
きっかけは夫婦げんかではありましたが(汗)
けんかして妻が実家に帰るのは初めてではありません。
今回も翌日「ただいま」と言って帰ってきました。
「お帰り」と私が言えば、今までと同じ生活が始まります。
でも、今回は「帰れ!」と怒鳴って追い返してしまいました。
本来ならば義母の介護の中心となるべき義兄夫婦の
妻(妹)の介護支援依頼に対する冷淡な対応に怒りが収まらず、
いつのまにか妻に対しても、お前がお人よしだから、と責めていました。
義兄は、義母は周囲に甘えがちだからほうっておけばよいと突き放し
義兄との同居を望む義母の(自宅マンションへの)引き取りを拒絶しました。
(義母は既に90歳です。甘えとかそういうレベルで判断する時期は過ぎています)
さらに、義母の不足する生活費(月2万円ほど)の負担も即座に拒絶しました。
(義兄は元官僚です。お金がないはずはない、と妻は言います。)
結局、何もする気はないということか !
私の怒りは頂点に達していました。
義兄夫婦は県外在住( 神奈川 )を盾に逃げの一手。
こっちは実母の介護で手一杯なのに、義母の世話までさせておいて、
手を差し伸べようともしない妻の兄夫婦。彼らに対する怒りが妻へ向かっていました。
ただ、一方で冷静な判断も働いていました。
妻も二人の母親の対応で疲れ切っていました。
そのためか、キツイ口調をするようになっていました。
それが私の怒りを呼び、私も妻に怒鳴ったりすることが多くなっていました。
お互いイライラしながら生活していては夫婦げんかが絶えなくなる。
そうすれは、本当に仲たがいすることになりかねない。
ここは、顔を合わせない時間が必要だと、心のどこかで思っていました。
老人ホームから自宅に帰りたがっている義母。
でも、1人で暮らすのは無理な健康状態。たまたま夫婦げんかで実家に帰った妻。
冷静に考えれば、義母と妻が同居するのが一番合理的に思えたのです。
しかしそこには(妻に出て行かれた私に)仕事をしながら実母を1人で介護するという、
さらなる負担が待っていました。
平均睡眠時間5時間余り。(現在は6時間くらいとれるようになりました)
夏場にお風呂に入る時間もとれず、タオルで汗を拭く毎日。
妻が夕食を作りに来るようになり、少し落ち着きましたが、
仕事に回せる時間は激減しました。収入も当然下がってきます。
ただ幸いなことに、夫婦げんかはほとんどなくなりました。
この先どうなるのか、まったく見通せませんが、
この判断が間違いでなかったことを祈るのみです。
2019年8月20日火曜日
「お世話になりました」
えっ? 誰かいるの? と思いきや、相手はトイレ。
トイレから出るときに、トイレの戸口のところで、
ドアノブをつかんで、中のほうに向かって言っている。
あとは普段と変わりなし。手を洗って、
手すりにつかまって、自分の部屋へ戻っていきます。
誰もいるわけはないけれど、やっぱり気になって、
中を覗きますが、普段と変わりなし、というか、
普段よりスリッパをきちんとそろえてあります。
そういう行動を何度か見かけました。
夜遅くだけ。昼間はありません。
寝ぼけているのか、どこかと勘違いしているような・・・
とりあえず、問題が発生している訳ではないので、
あえて、誰に言ってるの? とか聞かないようにしています。
2019年8月16日金曜日
最近、ボーっと立っています
どうしていいか分からないという風情で、ず~っと立っています。
「トイレ?」と聞くと、「トイレに行ってくる」と言って歩き出します。
妻は「変よ変よ、認知症がすすんだのかなぁ」と言います。
それから、以前にも増して、興味のあるテレビ番組は食い入るように見るようになりました。
朝ドラは好きです。天気予報にはとても関心があります。
意外ですが、ゴルフ番組も好きです。グリーンを転がる白いボールをじ~っと見ています。
ホールにうまく入ると「入った!」と喜びます。
しかし、テレビを見ながら食事をする時は要注意で、先日も味噌汁をひっくり返しました。
私は、”はは~ん”と思うのです。私の子供の頃にそっくりじゃないか!
私の小さい頃はぼんやりしてることが多くて、
なにボーっとしてるんだ?と両親や兄たちからよく言われました。
ボーっとしてるんじゃないんです!空想の世界でいろんなことをやってるんです。
いろんなところを飛び回ってるんだけれど、頭の中だから周囲の人にはわかりませんよね。
テレビもそう。
「ほら~、お口とお箸をちゃんと動かして食べなさい!」ってよく母から注意されたものです。
あ~ぁ、逆になっちゃったなぁ・・・と思うのです。
子供に帰る、いいじゃないか、それも人生だ、と思うようになりました。
2019年8月1日木曜日
「イクセロンパッチ」を9mgにしました
通常は9mgからとか・・・、拒否する理由はなく了承しましたが、
結果、あんまり変化はない、かな、今のところ。
皮膚トラブルもないので、保湿クリームは今回は必要ないと、
次回の診断時に主治医に伝えるつもり。
(毎回処方されていたので、保湿クリームのチューブは
3本ほど溜まっている)
それにしても、母は認知症ではあるけれど、
骨や皮膚が丈夫なので、ずいぶん助けられている。
何度も転んだけれど、骨折しないで済んでいる。
また、食べ物も好き嫌いがなく、毎回完食してくれる。
アレルギーもない。本当にありがたいことだと思う。
前回参考記事→「イクセロンパッチ」開始しました