2010年6月3日木曜日

変わらないことの大切さについて

昨日はソーシャル・キャピタルについて考えてみたけれど、比較的長寿な田舎のお年寄りにとってのソーシャル・キャピタルとは具体的にどんなことを意味するのだろうか?

我が家のご近所では徐々に一人暮らしのお年寄りが増えてきた。一人暮らしとわかれば民生委員からは週に一度、場合によっては毎日のように電話が入る。しかしこれは公的なものだし、万が一家で倒れていても、その日に気づいてくれるかどうか疑わしい。

ご近所のお年寄りは何をしているか。一人は毎日カーテンが開いているかチェックしているらしい。昼になってもそのままなら気になって様子を見に行っているという。別なお年寄り仲間はしょっちゅう訪ねて行っているらしい。それもお茶請け持参である。まぁ以上のような具合で孤独死などとは無縁である。

我が家は古い家で、改装を繰り返しているのでバリアフリーなどとはほど遠い。畳の部屋に板張りの部屋、増築部分にはいくつも段差がある。にもかかわらず、母はつまずくこともなく毎日行ったり来たりしている。

その母が、街に出るとほんのわずかな地面のふくらみにつまずいて転倒する。もちろん屋内屋外問わず慣れないところはだめである。

家事もそうだ。がしゃがしゃと扱いが粗雑になったとはいえ、炊事洗濯などの仕事は妻に負けない。というか負けるのがいやなのか、手伝うのをいやがり、可能な限り自分でやろうとする。長年やってきたことを、やらせてもらえないのが、かえって不満の原因となる。

生活環境の変化が少なければ、体が弱ったり、多少ボケたりしても、けっこう今までと同じように生活でき、それが張り合いとなって老人の生きる意欲につながっていると思う。

変わらないことの大切さ。それは若い人には、なかなか理解しがたいことかもしれない。しかしながら、この高齢化の時代にあって、それは重要なポイントになっていると私は思う。

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