出逢う患者さんお一人お一人へのまなざしが、なんてあったかなんだろう。
なんて人間くさいんだろう。こんなお医者さまに診て頂きたいな。
病気の体・・だけでなく、病気をもつ私・・を見て下さる、そんな先生に。
(Amazon Customer コメントより)
エッセイ集です。就寝前とかに、少しずつ読んでいます。
エッセイ集です。就寝前とかに、少しずつ読んでいます。
今の借家に持ってきたバッグ類も
いくつかありますが、書類などが、
ぎっしり詰まっています。
ほとんどは領収書とか診察券とか、
郵便物やメモなどですが、
中身を見ずに捨てるわけにもいかず、
確認して廃棄しています。
いつも手許に置いて離さなかったバッグの中に、
父の写真がビニール袋に入れてありました。
亡くなってからずっと持っていたのかボロボロですが、
いつも父が母のそばにいたんだなと思いました。
父と母は特別に仲が良かったとか、
そういうことはなくて、よくケンカをしていました。
父は短気で癇癪持ちだったし、母はわりと強情でした。
母に向かって、もっと素直に人の話を聞け!とか、
父は怒鳴ってましたね。母は無視して、父が逆上。
恐かったですねぇ・・・(゚A゚;)
でも、父が亡くなると1年ほど、いやもっとかな、
母の表情から笑顔が消えました。暗かったですし、
写真を見ると、どれも悲しい目をしています。
父の存在はこれほど大きかったのかと改めて思いました。
Amazonのネックは配達だね、安心できるのはクロネコかな、やっぱ。
事前に配送業者がどこか分かれば対応できるんだけど・・・
それにしても、この長男は強いな。
私だったら、借金背負わせた父親をさんざんののしって、
母親の末期がんの宣告で完全にノックアウト。
たぶん立ち上がれない。
でも、絶対に諦めない長男の姿勢には勇気づけられる。
私にとって目が飛び出るような話だった。
我が家は親戚の家ほどはないものの、
構造は同じようなものだし、かなりの費用になると思われるからだ。
現状でも、地下水くみ上げのポンプがこわれたり、
浄化槽にトラブルが生じたり、10万、20万のお金がぽんぽん出ていく。
田畑山林はお金にならず、むしろ管理費用だ、草刈代だと小口ながら
費用がかかる負の資産になっている。
父が亡くなった後、納骨堂を整備、息子三人を結婚させ、自宅を改修、
圃場整備(国の施策で避けられなかった)にもかなりのお金を使った。
その結果、我が家にお金はほとんど残されていない。
私の収入や年金は生活費に回せばほとんど残らない。まさに崖っぷち、
一歩間違えば路頭に迷うことになる。
母が残したものは負の資産だけ?
それでは母があんまりかわいそうだ。
母は母なりに必死で家を守ってきたのに。
だけど、まさか世の中がこれほど変わろうとは予測していなかった。
母の時代は、田んぼひとつ売れば300万くらいになった。
いざとなれば、田畑を少し手放せば生活には困らないだろうと思っていた。
だが現実は違って、借り手も買い手もつかないありさまだ。
じゃあ何も残っていないのか。母は何も残さなかったのか。
そんなことはない。母は私という人間を残していった。
私は母から家の再建を託されたと思っている。
5年間の介護戦争は私を強くした。私は負けない。
あらゆる手段を尽くして前田家を再建する。
それが私の弔い合戦、一番の母の供養だと思うから。
鳥は飛ばねばならぬ
人は生きねばならぬ
怒涛の海を飛びゆく鳥のように
混沌の世を生きねばならぬ
鳥は本能的に
暗黒を突破すれば
光明の島に着くことを知っている
そのように人も
一寸先は闇でなく
光であることを知らねばならぬ (坂村真民詩集より)
帯には
<老い衰える
不安をかかえる老人、
介護の負担で
つぶれそうな家族。
地獄のような
日々から、やっと
ひと筋見えてきた
親と子の
幸せとは・・・・・・。
在宅医療を知る医師
でもある著者が描く
”不都合な真実”。
新たな「認知症小説」!>
とあります。
こんなとき、毎日の買い物もけっこう負担になる。
退職したサラリーマンなら時間はあるだろうが、
私には退職はない。仕事をしながらの1人暮らし。
葬儀の後のいろいろな諸手続きもまだ終わらない。
49日の法事も控えている。時間に追われる毎日だ。
こんなとき、おもい水やレトルト食品など、
どかっと届けてもらえると、しばらくは生きていけるな、と思う。
若干費用はかかるが、時間にはかえられない。
ブログは私の貴重な息抜き時間、忙しいけどやめられない(^^;)
足がむくんできて、ご飯を食べなくなって1か月、
病院に入院して3週間、緩和ケア病棟に移って10日目の朝でした。
病名は末期のすい臓がんと肝臓の転移がんでした。
余命1ヶ月くらいですが、いつ亡くなってもおかしくない状態とも言われました。
体のむくみと自分で寝返りできないのが辛いようで、
むくんだ手足をさすったり、体の向きを変えてもらったりの毎日でしたが、
がんの苦痛を訴えることはありませんでした。
それでも、母にとってつらい病院生活をさせてしまったという、
後悔の念はいまだに消えません。
むしろだんだん強くなって、思い返すと息が苦しくなります。
振り返れば、ご飯を食べず寝てばかりいて、食べてないのでふらふらして、
トイレの前で転倒しました。朝、声をかけてもご飯はいらないと起きてきません。
それで、介護支援事業所に相談して救急車に来てもらいましたが、
そもそも、その対応は正しかったのか、何度も何度も自分に問いかけています。
どうにかして私の車に乗せて、病院の消化器内科を受診していれば、
あんなにつらそうな1日2~3回、何時間もの点滴をしなくてすんだのではないか。
体がパンパンにむくむようなこともなかったのではないか。
点滴なしなら、数日早く亡くなったかもしれないけれど、
むくんだ体で寝返えりもできないという辛い思いもせずにすんだのではないか・・・
母が辛そうなので「早く緩和ケア病棟に移してください!」と看護師さんに訴えたら、
「あなたは延命しないでいいという確認を本人にとっていますか!」とするどく返されて、
思わず口をつぐんでしまいました。それでも見るに見かねて、
(転院も含めて)「ソーシャルワーカーに相談する!」と言ったら
翌日から急にスタッフの対応が変り、緩和ケア病棟師長が会うことになったと告げられ、
その翌日、緩和ケア病棟師長から病棟移動の話があり、
3日目の朝、緩和ケア病棟に移ることができたのでした。
緩和ケア病棟の主治医の判断は、救急病棟とまるで異なり、
点滴はせず、体のむくみを減らすというものでした。
むくみがとれれば本人も楽になるはずです、とも言われました。
もっと早く、もっと強く病院に訴えて、ここに来るべきだった。
私の後悔の念は消えることがありません。
5年間の介護はたしかに大変でしたが、
母がいないと、心のなかにぽっかり穴があいてしまって、
何をしてもその穴が埋まりません。
ああすればよかった、こうすればよかったと悔やむことがたくさんあって、
母の遺影に「ごめんね、ごめんね」と謝る毎日です。
ただ、能力の限界まで頑張ったと思えることだけが私の救いになっています。
「わしらの故郷は寂しゅうなるばかりじゃ」「どっかで間違ごうてしもうたんじゃ、この国は」
「このままじゃいけん、このままじゃ」そう言って平山は医者に止められている酒に酔い潰れて
いきます。
そうなんだよなぁ・・・私たちの故郷は寂しくなるばかりだ、このままでは・・・(涙)
うて お
けんかして妻が実家に帰るのは初めてではありません。
今回も翌日「ただいま」と言って帰ってきました。
「お帰り」と私が言えば、今までと同じ生活が始まります。
でも、今回は「帰れ!」と怒鳴って追い返してしまいました。
本来ならば義母の介護の中心となるべき義兄夫婦の
妻(妹)の介護支援依頼に対する冷淡な対応に怒りが収まらず、
いつのまにか妻に対しても、お前がお人よしだから、と責めていました。
義兄は、義母は周囲に甘えがちだからほうっておけばよいと突き放し
義兄との同居を望む義母の(自宅マンションへの)引き取りを拒絶しました。
(義母は既に90歳です。甘えとかそういうレベルで判断する時期は過ぎています)
さらに、義母の不足する生活費(月2万円ほど)の負担も即座に拒絶しました。
(義兄は元官僚です。お金がないはずはない、と妻は言います。)
結局、何もする気はないということか !
私の怒りは頂点に達していました。
義兄夫婦は県外在住( 神奈川 )を盾に逃げの一手。
こっちは実母の介護で手一杯なのに、義母の世話までさせておいて、
手を差し伸べようともしない妻の兄夫婦。彼らに対する怒りが妻へ向かっていました。
ただ、一方で冷静な判断も働いていました。
妻も二人の母親の対応で疲れ切っていました。
そのためか、キツイ口調をするようになっていました。
それが私の怒りを呼び、私も妻に怒鳴ったりすることが多くなっていました。
お互いイライラしながら生活していては夫婦げんかが絶えなくなる。
そうすれは、本当に仲たがいすることになりかねない。
ここは、顔を合わせない時間が必要だと、心のどこかで思っていました。
老人ホームから自宅に帰りたがっている義母。
でも、1人で暮らすのは無理な健康状態。たまたま夫婦げんかで実家に帰った妻。
冷静に考えれば、義母と妻が同居するのが一番合理的に思えたのです。
しかしそこには(妻に出て行かれた私に)仕事をしながら実母を1人で介護するという、
さらなる負担が待っていました。
平均睡眠時間5時間余り。(現在は6時間くらいとれるようになりました)
夏場にお風呂に入る時間もとれず、タオルで汗を拭く毎日。
妻が夕食を作りに来るようになり、少し落ち着きましたが、
仕事に回せる時間は激減しました。収入も当然下がってきます。
ただ幸いなことに、夫婦げんかはほとんどなくなりました。
この先どうなるのか、まったく見通せませんが、
この判断が間違いでなかったことを祈るのみです。
あとは普段と変わりなし。手を洗って、
手すりにつかまって、自分の部屋へ戻っていきます。
誰もいるわけはないけれど、やっぱり気になって、
中を覗きますが、普段と変わりなし、というか、
普段よりスリッパをきちんとそろえてあります。
そういう行動を何度か見かけました。
夜遅くだけ。昼間はありません。
寝ぼけているのか、どこかと勘違いしているような・・・
とりあえず、問題が発生している訳ではないので、
あえて、誰に言ってるの? とか聞かないようにしています。
それから、以前にも増して、興味のあるテレビ番組は食い入るように見るようになりました。
朝ドラは好きです。天気予報にはとても関心があります。
意外ですが、ゴルフ番組も好きです。グリーンを転がる白いボールをじ~っと見ています。
ホールにうまく入ると「入った!」と喜びます。
しかし、テレビを見ながら食事をする時は要注意で、先日も味噌汁をひっくり返しました。
私は、”はは~ん”と思うのです。私の子供の頃にそっくりじゃないか!
私の小さい頃はぼんやりしてることが多くて、
なにボーっとしてるんだ?と両親や兄たちからよく言われました。
ボーっとしてるんじゃないんです!空想の世界でいろんなことをやってるんです。
いろんなところを飛び回ってるんだけれど、頭の中だから周囲の人にはわかりませんよね。
テレビもそう。
「ほら~、お口とお箸をちゃんと動かして食べなさい!」ってよく母から注意されたものです。
あ~ぁ、逆になっちゃったなぁ・・・と思うのです。
子供に帰る、いいじゃないか、それも人生だ、と思うようになりました。
皮膚トラブルもないので、保湿クリームは今回は必要ないと、
次回の診断時に主治医に伝えるつもり。
(毎回処方されていたので、保湿クリームのチューブは
3本ほど溜まっている)
それにしても、母は認知症ではあるけれど、
骨や皮膚が丈夫なので、ずいぶん助けられている。
何度も転んだけれど、骨折しないで済んでいる。
また、食べ物も好き嫌いがなく、毎回完食してくれる。
アレルギーもない。本当にありがたいことだと思う。
前回参考記事→「イクセロンパッチ」開始しました
でも、家族それぞれの思いはよく表現されていて、
そうなんだよなぁ・・・と心にじわっと染みてくる。
それにしても、老いた体で石段を登っていく夫婦の後ろ姿が、
ふたりの人生を表しているようで・・・ずしりと重く感じた。
最愛の長男を事故で亡くした夫婦の15年は、
この石段みたいなものだったのだろうな・・・。
母が貼るのを嫌がったりしないので助かりました。
少し感情が穏やかに明るくなったような気がします(^^)
観音の中でも功徳が大きく、観音の中の王という意味で「蓮華王」と呼ばれることもあります。
阿修羅や金剛力士などの二十八部衆を配下にしています。
また六観音の一つに数えられ餓鬼道に迷う人々を救うといわれています。
(「仏像ワールド」より引用)